ワンモニのコラムページ

第三話 戦争と救急車

 まいった。眠いのに眠れない。起きて仕事をしようか。パン屋さん達は今日も暗いうちから、あっちこっちでパンを焼き始めているだろう。

 遠い国でまた新しい戦争が始まった。もうひと月になる。世界中、どこかでいつも争いは絶えなくて、そこに光が当たる度に私は右往左往しながら、眠れず丸まっている人たちのことを想像しては自分まで眠りが浅くなる。多くの人々の目が集まりその戦争のことが日常の話題にのぼるようになったそういう時に、私の単純な脳みそはかき集めた情報を元に付け焼き刃の想像を始めるのだ。ほとほといい加減なやつである。
 傍でいびきをかいて眠っている犬のルーが、不安で目を覚ました私に急に抱き締められ、迷惑そうに目を開ける。だけどルーだってひどい。街を走り抜けていく救急車のサイレンが響く度にむくりと起きて、甲高く揺れる声で闇を切り裂き私を起こす。野良犬時代のトラウマなのかと心配していたのだが、サイレンの周波数がちょうどお気に入りの具合だから反射的に…というのが主な理由のように思えてきた。とはいえ、叫んだ自分の声でハウリングが起きるのか、ルーはルーの声で眠れなくなる。真夜中の遠吠えが始まると、私はルーの頭を引き寄せて何度も撫でる。コロナ禍になって二年。夜を走る救急車のサイレンは圧倒的に増えた。ただでさえ音に過敏なルーにとってこの日常は随分こたえるんじゃなかろうかと、殆ど毎晩パニックで目を覚ます毛むくじゃらの友だちを抱き締めながら思う。走り抜けていく救急車の中では命がチカチカと激しく明滅を繰り返していることだろう。サイレンの音が届かなくなるまでずっと、私はルーと救急車の中の人々のことを想って祈るようになった。流れ星を見送る時に似ている。それでますます眠れなくなる。
 少し前にまた一台、救急車が走り去っていった。脈の早くなった胸を撫でながら、私はベッドの上に広げていたペンケースやノートを鞄にしまい、そうっと布団を抜け出してドアを開ける。春と言っても日が昇るまではまだ寒い。震えながら体をさすっていると、暗闇の中からのそのそとルーがやってきて、あくびをしながら横に座る。「寝てていいんだってば…」繰り返される会話。どんな時も、彼女はぴったりと私の傍に居ようとする。居なくならないで欲しいんだと思う。

 まだ真っ暗な世界の中、朝を告げるボブ・ディランの歌声に背を押されて、私はトースターにパンを一枚入れる。チン、とタイマーの終わる音がしたらルーが飛んでいくだろう。 

 どうかみんながゆっくり眠れますように。
 愛を込めて。

2022.3.27

第二話 パンが焼けるよ

朝になってカーテンを開け
君を探す 顔を洗う
溢れ出す水 手で受け止めて
今日も幸せであれと願う

風の中に混じる咳が一つ
二つ 三つ 四つ 五つ
君は元気でいるだろうか
烏に突かれて泣いていないか
どこか遠い街の隅で騙されていなければいいのだが

パンが焼けるよ

眠れなくて カーテンを開け
夜の中を港へ向かう
遠い街の君がこんな風に
胸を締め付けながら彷徨わぬようにと願う

朝が来るよ

『パンが焼けるよ』


 横浜にある、寿町(ことぶきちょう)という小さな町に、2週間ほど滞在していたことがあった。6、70年代、主に港湾で働く日雇い労働者の暮らす町として栄えたそこは、年月が経ち、様々な事情を抱えて尚、生きたい。と流れ流れて来たいろんな人たちと、その命を支える沢山の人々の願いで、溢れていた。

「寿に少しの間暮らしながら、唄を一つ作りませんか。」

 『KOTOBUKIクリエイティブアクション』というアートプロジェクトスタッフから声を掛けられたのは、2013年のことだったと思う。寿は怖い町。女の人が立ち入っていい場所ではない。ましてや滞在アートなんて、何を考えているのか。と、私を心配してくれる友人の声もあったが、初めて寿町を訪れた2011年の冬。路地を歩きながら見上げた、連なって風に小さく揺れる薄い窓ガラスや、地面に落ちているうんこすれすれを歩いていく酔っ払いのおじいさんや、道端に座り込み唾を飛ばしながら笑うおばさん達に心を掴まれていた私は、あの人たちの傍で生活をするのは体力がいるだろうな。と数日考えて、「やります。」と返事をした。

 用意してもらったのは、「ドヤ」と呼ばれる一部屋二畳の部屋を幾つも抱える簡易宿場の一室だった。部屋の横を走る廊下には流しがあって、朝4時半くらいになると、ドアの向こうから大量の空き缶が互いにぶつかり合って鳴らす乾いた金属音で目が覚めた。はっ、ペッ! と痰を吐き出し水道の蛇口から溢れ出した水でガラガラうがいをする音と、苦しそうな咳が廊下に響き、やがて、足とカンカラを引きずりながら、遠ざかっていく。それから少し経って太陽が昇ってくるのだが、ちょうど私の部屋の窓を開けるとパンの香りが…したのは気のせいだったかもしれない。道を挟んで斜め向かいだったか、カモメベーグルという小さなベーグル屋さんがあって、時々、焼きたてのベーグルの匂いが風に乗って運ばれる日があった。デパートにも納品するらしく、パン屋さんというより小さなパン工場だったが、直接店を訪れる人にも売ってくれる、時間によっては焼きたてだよと地元の人に聞き、その開店日をめがけて早朝、走ってベーグルを買いに行くことがあった。
 大きくて、中にクリームチーズとベリーの入っている焼きたてのベーグルはもうとても美味しくて、一度食べて大好きになったのだけれど、一つの値段は300円に近く、寿町に暮らしているとそれはかなり大金だったので、買ってしまった自分にも店にも、抵抗はあった。毎朝空き缶を集めてくるおじさんのあの缶を幾つ売ると、このベーグル一つのお金を稼ぐことが出来るのか。財布を握りしめて走りながらふと立ち止まり、300円について、その度に思いを巡らした。
 ベーグル屋さんは、多分2時には起きて、ベーグルの粉をこねている。機械も使っているけれど、沢山のベーグルを作るので、人も随分雇っている。しかし小さな工場である。あの機械を常に整備し、工場で働く人に賃金を払い、それぞれが健やかに笑って働ける環境を維持するには、一つ幾らで売ったらいいだろう。粉だって、恐らく、いい粉を使っている。いや、あんまりいい粉を使うと、もっと一つの値段を高くしなければならなくなるから、私が思っているよりは安い粉かもしれない。だけど輸入の粉を使うと農薬が多くて体を壊す人もいっぱいいるからせめて国産を使いたいね、いや、出来れば無農薬がいいよ、いろんな話し合いがあって、いろいろ考えて、粉だけではなく使う材料を選んで、一生懸命考えて、その値段になったに違いない。
 私は、唄を歌う。唄は、目に見えないし重さもない。ないから、お金に変わらないこともいっぱいある。でも、その唄で人生が変わったよと言ってくれる人もいる。値段はある日無料であるし、ある日、数十万円になったりする。
 寿に暮らしている一人の友人は、生活保護をもらって暮らしている。若い時暴走族で無茶苦茶にバイクで走って、事故で体が壊れてしまった。差し迫った生活だけど、タバコを買う。ジュースを買って私にくれたりする。私はクリームチーズとベリーのベーグルが食べたい。300円。

・・・よし。

 そんな風にいちいちいろいろ考えて、「ベーグルを二つください」と、なんと意を決して600円くらい使ってベーグルを買って、友達と分けて食べたりした。

 もうずっと会っていない。元気だろうか。きっと友達もそう思っている。

2021.9.18

第一話 真夜中のパン屋さん

夏至も過ぎ、日が登るのも随分早くなった。起き出した鳥たちはその囀りの間を少しづつ詰めながら、軽快に仲間を呼んでいく。一羽、また一羽。遠くから静かにタイヤの擦れる音が近付いてきて去っていった。人の気配はまだ殆どない。東京。現在、午前四時七分。目を覚まして時計を見るといつも三時より少し前なのだけれど、それよりももっと前。午前二時頃から、友人の夫は起きてパンを作り始める。二人の暮らす静岡の家に泊めてもらったある日。久しぶりに会って夜中までペチャクチャと話をしていた私達の傍を、地面から這い上がるように起きやがて颯爽と出掛けて行った旦那さんに、いってらっしゃい。と肩をすくめて彼女は手を振った。「私は子どもたちのこともあるので、そのまま眠らせてもらうんだけどね」。向こうでは二人の男の子が互いの手を握り合ったまま、隣り合わせに敷かれた布団の上ですうすう眠っていた。あれ以来。夜の二時を超えた頃になると、心の奥の真っ暗な夜には小さな明かりが灯り、まだ形にならないパンの種がまな板の上で、よいしょ、よいしょ。とこねられるようになった。今時は機械がこねてくれるのかもしれないけれども。きっとあの日、友人に読ませてもらった絵本の影響だろう。

暗くて寒い冬の中。おひさまが顔をのぞかせてくれるのを待ちわびる街の動物たちに、犬のパン屋さんが、おひさま味のするパンを作りました。まん丸で、黄金のように輝く、おひさまのパン。

もう14年は前になるのだろうか。当時、一緒に映画の現場で働いていた友人から「結婚することになった。彼は、レゲエ雑誌の編集長だったんだけれど、何か自分の手から生み出す仕事をしたいと言って、パン屋の修行に行きました。」と告げられた。「えっ! これから修行?! 大丈夫かその人?」私のすっとんきょうな顔を見て彼女は「あはは!」と笑い、軽やかにお嫁に行った。

・・・鳩も鳴き始めた。隣で丸くなって眠っている私の親友・犬のルーは、救急車の音で目を覚ましたのに、また眠ってしまった。私ももう少しだけ眠ろうかな。もう少しだけ。今頃、窯の中からはきっとパンのいい香りが立ちのぼっている。

One Too Many Mornings.

今日が始まる。

ライタープロフィール

1977年8月6日、東京生まれ。東京芸術大学建築科在学中に、宮崎駿主催アニメーション演出家養成講座「東小金井村塾2」修了。この縁により、映画『千と千尋の神隠し』のリン役に抜擢。その後ポツポツと数年に一度の割合で演劇作品や映画に女優として顔を出しつつ、ここ数年は『渋さ知らズ』メンバーとして歌う。2011年から続けている音楽と旅のプロジェクト『White Elephant』は、忘れられそうになりつつも懸命に持続。「あの人は一体何をしているんだろう」と周囲に疑問を抱かれながら、犬とぼんやり暮らす日々。

玉井夕海(ウタウタイ)[web site / twitter @bouz_kobouz]